11.05.08 観てきた

東京都現代美術館で開催されている『MOTアニュアル2011-世界の深さのはかり方』が最終日だったので
駆け込んできた。知人の冨井大裕さんの作品がとてもよいから見逃すな、と周囲から聞こえてきていたので、
これは観ておかねば!というわけである。

天井が高く真白な壁の空間に、彼のカラフルな作品はとても「しん」とした風で高潔な感じさえした。
特に『ゴールドフィンガー』はまるで宗教画のよう。
多く日常で見かけるものたちがそのたたずまいを変え、そこにあることがよく似合っていた。
なんだかあの空間すべてが冨井さんのすごさ(というと安っぽいが)を示していたと思う。

小品がいくつも並べられたガラスケースを前に、友人と「これが好きだな」「私はこれだな」などと
ささやき合い、「あ、これはメッセージ性高い感じだ」「うん、なんか『わかりやすい』感じだ」と語ったあとで、
そもそも私には冨井さんの作品ひとつひとつの意図(あるいは経緯)を言葉にすることすら
到底不可能なくせに「わかりやすい」と感じることがあるって不思議だよな、と思った。
これは決して具体的に何かがわかっているわけではなく、あくまで 感じ でしかなくて、けれど
それが大事な気がしたり、この感覚は同一作家の作品が複数点置かれていることで
初めて持ち上がってくるものだろうなどと思ったり。
ただ、よくわからないけれど「わかりやすい」感じがあったことは確かで、その感覚はぜんたい奇妙だった。

ちなみに冨井さんはこうHP上で述べている。
『作品とはわからないものである。そして、どの様にわからないかという「わからなさの質」を求めるものである。』

にゃごにゃご。

その他、八木良太さんの作品も気負いなく自然体な感じがして(それは文章がそうさせるところもあるのかも)、
とても素敵だった。この人がどんなものをどんな風に観ているのか、興味がある。
池内晶子さんの作品には思わずため息がもれる。宙に浮く面は地下を強烈に意識させるものだなあと
好き勝手なことを思う。

よくわからない、と言われがちな現代美術だけれど(そして確かにそういう側面もあると思うし、
意図や意味がわかることですっきりしたい、方向性を示唆されたいという人間的な気持ちも否めないけれど)、
観る基準は決してわかるか否かだけではないのだと、実際に作品を目の当たりにすることで実感する。
人間の感受性はそんなに鈍いものではないと思う。


その後、同時開催されていた『田窪恭治展-風景芸術』を観る。
私にとって、名前で作品が浮かぶ作家ではなかったけれど展示内容は興味深かった。
何年もの時間をかけてのプロジェクトとそのためのたくさんの習作、ひとつひとつが面白い。
模型はオブジェといって差し支えがないし、ドローイング1枚とっても美しく、
習作の数々は観る者の脳裏に、作家の手が休むことなく動き続けていることをあらわす。

ああ、こんなラフスケッチを描けたらなあ、などとすっとんきょうなことを夢想する。
若い頃に作られた『オベリスク』シリーズも印象深く美しかったなあ。

観て思ったまま、好き勝手なことを書いてしまったが、とにかく今日はいいものをたくさん観た。眼福。

◎本日の読了
『図書館戦争』有川浩 角川文庫