13.12.17 観てきた

観たい観たいと思いつつ、行かずにいた『ターナー展』も閉幕間際となりあわてて上野へ。
これまでだったら、混んでそうだしな、と行かなかっただろう展示だけど、
ロンドンへ行って「ああ、ここはターナーのいた国だ」と思えたこともあって
作品を一覧しておきたかったのだ。
理想を言えばロンドンで観られれば良かったけれど(その方が空間も空気もぴったりだしね)、
この展覧会の開催時期的にそうもいかず……。

普段から、多くの人に美術館って面白いと思ってもらえたらいいと思っているけれど、
観に行く側としては、混んでいる美術館は大キライだ。
周囲のノイズに神経を削られて作品と純粋に対峙できないから。
でも、この展示はどうしたって混んでいそうだった。
15時以降は割合空いています、という情報をもとにその頃合いに行ってみたものの、
みんな、平日のこんな時間に何してるんですか!と(自分を棚に上げて)言いたくなる盛況っぷり。
すぐさま、心的バロメーターの運動レベルを0に近いところまで下げる。
そうでもしないと、細かいことにまでイライラしてしまってますますターナーどころではない。

さておき。
若い頃から成功をおさめていたターナーの大規模な回顧展ということもあって
初期水彩画から晩年の“光”まで、多様な挑戦を観ることが出来た。
水彩画は初めて観たように思うけれど、こちらも見事。特に本の挿絵のために
描かれた小品は、その小ささにあわせた繊細な筆致でとても美しかった。
こんな風に描けたらどんなにいいだろう、とその先にある実際の風景を思い描く。

二次元になった風景からどれだけ三次元として取り出せるか、
それは画家の技量もあるけれど、鑑賞者側がどれだけ風景をみてきたかという経験も大きい。
額縁の外に地平線を広げ、平面化された奥行きをぽこぽこと立ち上げる能力は自らの経験が育てる。
想像ではなく実感として絵画から風景を感じるためには
それが大きな役割を持っているなあと絵と対峙しながらそう思った。
まあ、これは現代社会での考え方かもしれないし、
そもそもターナーの絵を見ながら思うことなのかしらんとも思うのだけれど。


人混みにイライラせぬよう、絵を鑑賞したあと、
閉館ギリギリに、あまりにも混雑していて飛ばしてきた辺りに戻る。
すると…天国のような風景。
誰ひとりいない空間でターナーと対峙することが出来た。至福。
やっぱりこうでなくっちゃなあ!と自分勝手なことを思いながらようやく満足。
日本の展示では珍しく、徹底した西洋的な壁面もあいまって
ターナーとの1対1はゼイタクでありました。
天井が低いのは惜しいけれど、今回の展覧会会場はすごくがんばっていて良かった。
(その分、入場料高いけど!!ぷんすか)

そういえば、チューブが発明される前、絵の具は豚の膀胱に入れられていたのですね。
知恵だなー。


その後、O氏とS嬢と夕食。
最終的に超オモシロ中華料理屋に入ってバカうけであった。
あそこは万全の体勢でもう一度いかなくては。

O氏「あ、すいません、焼きまんじゅう下さ……」
店長(食い気味で)「ああ、ああ!!」(と手を振る)
O氏「え?あ、ない??」
店長「テンシンノコックモウカエッタ」(超早口でそういうと超速でUターン)
O氏「え?なんて?笑」
T 「コックが変わった?」
S嬢「いや、点心のコックがもう帰った、じゃないですか」
爆笑。

いやー、おもろい。