13.04.26【その1】つづく

プロジェクトは続く。


歴史を後世から見た時、思うことも評価もさまざまだ。
ただ、歴史に対する絶賛あるいは批判を小耳に挟みながら、
でもなぁ、と思う。

今、私たちは自分のやっていることに対してあれこれ悩んで、
でも必ずなんらかの挑戦をして、「今、この時」の答えを出す。
それは誰かにとっての不正解であり、批判の的であるには違いないし、
(批評の的なら好ましいかもしれないが、存外世の中は大人げなくもある。)
何年も経ったあとの自分にとっての答えとは違う可能性も高い。
やっている自分が一番、途上であることを知っていて、
生み出すあるひとつの結果は、その先の礎「でしかない」ことも痛感している。

だとすれば、かつて生きた人々にとっても彼らの若き時代から晩年までが
それの連続だったのだ、となめらかに思うことが出来る。
そしてそう思った途端、目線は不思議なニュートラルさを帯びてくる。
(きっとそこにはとても素直な気持ちから生まれる尊重があるのだ。)

そのニュートラルさで眺めると、後からの絶賛や批判は少し、むなしい。
(もちろん批評はこれとは別だし、個人的な好き嫌いだって自由だと思う。)
その時代の挑戦を、同時代性を絶対にわかり得ない後生が
自分たちの時代のものでしかあり得ない価値観で絶賛していても批判していたって、
「でもなぁ」「それでもなぁ」という気分になってしまうのだ。

「劇的な出来事」は後の時代に「おこった」のであって、
当時それは上記のような連続性の断片に過ぎなかったのだよな、とか、
歴史を切り分けたのはやっぱり後から来た人間で、
歴史そのものは誰かの人生やなにかが終わろうとも、
どんなものごとも断ち切ることなく、続いているのだよな、とか。


私が興味があるのは「だから、素晴らしい」でも「だから、ダメだ」でもなく、
どんな時代に、誰と誰がどのように何をして、何に繋がったことで、世の中が「今」なのか
といった《営み》そのものなのだ、と最近強く思う。