12.01.25 【その2】観てきた

この時点(【その1】)でもまだ9時15分。

このまま直帰するのはもったいないので、国立博物館を覗いてみることにした。
現在開催されている『北京故宮博物院200選』。
清明上河図」が展示されていた時は入るのにさえ3時間近く並んでいたと聞いて
行く気にもならなかったが、現物展示も昨日まで。
今日なら割合空いているんじゃないかと思ったのである。
入場券を買うのに少し並んだが、それ以外はわりとスムーズに見られてストレスがなかったので大正解。

内容はといえば、上記の話題作がなくても十分満足。
(ちなみに現物はないが複製展示はしている。拡大VTRの方が見やすくて面白かったけど。)

雰囲気を丁寧に作った会場には、
眼でなめ回したくなるような圧巻の絵巻や人間業とは思えない刺繍やつづれ織りの工芸品の数々!
ガラスケースぎりぎりまで近づいても絵画にしか見えないほど精緻な織物って一体なんなんだ!と
鼻息荒く眺める。思わず隣の女性に「織物とは思えませんねぇ」とため息まじりに話しかけたいくらいだった。
(刺繍した場所以外の部分にクジャクの羽根を敷き詰めている服とかもある。なんじゃそりゃ!
 でもこれは綺麗なものに当時の人がとても敏感で正直だったということで、その素直さをステキだと思った)

権力があることで生み出されてきた芸術品をみると、権力というものの必要性をふと感じたりする。
権力がなければ残らなかったもの、生み出されなかった技術。それは確かにあるのだ。

それからこの展示では、書の国らしくたくさんの名書が展示されていたが、
よほどわかりやすいもの以外は「書の文脈」を持った人でなければ
良し悪しが全くわからず、奥が深いのだなあと思った。
私のようなど素人からみたら、書きなぐったようにしか思えないものが超一級品だったりする。
かわりにそれらを眺めながらそれにたくさん捺された印ばかり見ていた。
これらは間違いなくピカイチだ。うっとり。
なぜこれほどまでに、「版」を通したものが好きなんだろう。
これはちょっと追求してみるべきことだ。

それにしても、かつてこれほどまでだった技術は一体どこへ行ってしまったのだろうと
乾いたむなしさを隣国に感じつつ鑑賞していたのだが、
帰りに寄った常設展で日本でかつて行なわれ、現在では失われた極上の技術をみて、
なんのことはない、自分のところだってそうじゃないかと思った。
一度生まれた技術がなかった頃には戻れないと、特に科学などでは語られるが
人間の持ち得た手技は平気でなかった頃に戻れてしまうのだ。
それはそこにある「もの」に起因しているのではなく、無形の「行為」だからだろう。
人間は存在するものに対して無頓着だったりするから、なくなってもしばらくは
そのことに気付かなかったりすることも多いしなあ。

今、私達の身の回りにある「行為」たちはどのくらい先まで繋がっていくのだろう。


なんだかんだで長居してしまったがそれでも14時で得した気分。天気もよくていい気分。
いい気分ついでに駅ビルで立ち食い寿司(!)を初体験してあんみつを食べて贅沢な気分。

早起きは三文の徳というが、それを体現したような1日だった。
それにしても、珍しくよく「待った」日でもあった。