13.10.31【その1】

午後イチで打ち合わせ。
汎用性のある冊子を作るために、担当の方々とあれこれ話をする。
時間のない中でどれだけのことをするか、というのも私の大事な仕事。

最近「私だからこうなった」っていうデザインが出来ているだろうかと省みる。
もっと何か出来たんじゃないか、とかあそこはもっと粘れたんじゃないかとか
少し心臓がキュッと縮む気がする。普通の「もっと出来た」よりももっと「もっと出来た」はずだ、と。
ひとつひとつのことをその時の100%でできているかどうか、もっと自分に厳しくないとダメだ。


その後、O氏とKさんのラジオ収録に乗り込む。「公開」収録だったけれど
それはきっと私が「行く行く!」って悪乗りしたからだな(笑)でもとても楽しかった。
日々つるんでいて、ものづくりの話もするけれど
お互いの来歴なんてものはそれぞれの目が届いた範囲でしかないから
語られることを聞きながら「あ、そういう流れなのね」とか「へーほー」と
ただひとりの客としてニマニマしながら聞いていた。
なんというか、その人の純度の高い部分が少し見えるような、そんな気分だった。
きっと今は随分枝葉が生長していて、私(他者)は普段その茂りと向き合っているのだけれど
フッと視線をおとしたら、その人のグラウンドなるものが枝葉を支えているのが見えた、みたいな感じだろうか。
(根っこや幹よりもグラウンドが見える、って感じなのだ。)
多分、本人からしてみたらそれもずっと続いてきた自分の経過点だから
出発点みたいに思われてもまたちょっと違うんだろうけどね。

うーむ、なに言ってるのかよくわからなくなってきた。
まあつまり、人は人に興味があるってことだ。
そして他者の声を聞きながら自分を反芻して、自らを言語認識していくもんだな、と思った次第。


そしてこの場所は、誰かの何かが他の誰かの何かに引っかかっていく。
それがたとえ、発した側の感覚それ自体ではなくとも、
咀嚼吸収されて受けた側の感覚に寄り添う何かになっていくことにここの人たちは寛容だ。
(ただし発した側への敬意が払われている限りは、だろうけど)

うーむ、やっぱり何言ってるのかよくわからなくなってきたから撤退。