卒業して久しいが、いまだに大学の芸術祭に足を運ぶ。
祭りを楽しむためというよりはそれを口実に集まってくる
かつての担当学生たちに会えるからだ。
今日もたくさんの卒業生に会えて嬉しくなる。
久しぶりの顔も会ったり、近況として仕事の話を聞いたり。
頑張っているみんなの話を聞ける機会はとても嬉しい。
社会に出て3年、それぞれにいろんなことが起こって、周囲の人間関係が変わったり、
転職していたり、海外に行くことが決まったり。
本人にとっては続いている日々も聞く方にとっては驚くことが多いけれど
きっとそのひとつひとつは大切な出来事で、それが機会やチャンスや挑戦であれば
本当にできる限り飛び込んでもらいたいなあと、僭越ながら思っている。
まだまだ、なんでもできるよね。
…なんて思っているばかりじゃなくて、私もみんなを見習って頑張らねば!
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それから、『AがBであるように僕もまたAである』(大垣彩・竹畠薫)という展示を観に行く。
私は油彩をやろうとか、絵を描こうとか、基本的に思ったことがない。
(絵が描けたらいいなあと思うことは何度もあるけれど)
大垣さんは抽象画を描き、
竹畠さんは風景画と言えるものの、その色彩の方が強く印象に残る作品を描く。
そんな2人の作品を観ながら、一体どんな意識と闘いながら
絵の具をキャンバスにのせていくのだろう、とふと不思議な気分になった。
絵に自分をぶつける行為をしない私が、もし大きなキャンパスに色をのせていく行為をしたとすると
(しかも写生のようなことではなく、自分から湧き出る「何か」として)
どこかでその行為そのものの意義や意味を疑問に思って行き止まりにぶつかって
打ち捨ててしまいそうな気がするのだが、
2人とっては絶対にそんなことはないし、むしろそこに自分が制作をする意味や
生きていく際の必要性みたいなものを見いだしているのだ。
そんな姿勢のどちらがどうだ、ということではなく、
心底その「夢中」の違いが不思議に感じられて、わくわくする。
自分の知らない世界があることにも、それに向き合っている人の存在にも、
そしてその結果としての絵画にもわくわくしてしまう。
会場で2人には会えなかったけれど、どんな風に何を考えて日々を過ごしているのか
一度ゆっくり聞いてみたいなあと思った。