14.04.23 謎だから、楽しい

今日はS本さんの気になる「謎」をみんなで聴く。
装飾古墳についていろんな話を聞いたり、写真を見たり。
こういうものは結局、どんなにそれっぽい理屈がついたところで
それが正解ではないし、そもそも正解かどうかを確かめる術もない。
「これなら私たちは納得できるようだ」というのがせいぜいで、
その精度を世界中であげていく世界なのかもなーと考える。
(こんな(↑)言い方は乱暴かもしれないけど、
 その行為はとても素晴らしいことだ、と思っています。)

だけど、「なんでだろう?」「これは◯◯かな?」「こういうことだったとか?」
なんてみんなで話をするのはなんだか楽しい。
それはきっと、相手にしているものが「謎」だからだ。

人間はどんなものにも理由や意味や解釈をつけたがるけれど、
(それはとても人間らしいこと、だとも思うけれど)
その一方で答えなんて欲しくないものもある。
だって、答えは面白くもない内容で想像力の翼を暴力的にへしおったりするから。

人間はどんなものにも理由や意味や解釈を欲しがるけれど、
その一方で、自分たちの想像力とその可能性を
「答え」などに邪魔されずに解き放っておきたい生き物でもあるのだ。
それもとても人間らしい、と私は思ってしまうのです。


今日ご一緒した方が、
『意味を知る前の方が、意味に触れていた気がします』とおっしゃっていた。
ああ、まったくもってそうだなあ、ぴったりだなあ、とじーんとする。


何ごとも最初に生まれた時は純粋であった、ということは信じられるな、と考えてみたり、
それがいつか形骸化するのもどうやら想像できるな、と思ったり。
例えば、私たちが使っている言葉はずっと日本語だけれど、
昔と今とでは随分違うのも、今でも新しいことばが日々生まれているのも
ことばが形骸化して本当の意味がすり切れていくことに対しての
人々の抵抗なのかもなあ、と思えた帰り道。

思考はいつもあっちこっちしている。