14.03.25【その2】

CDの向こうにいる人が誰かを「知って」いる、ということが
私の人生にもあるのだなあ、と急に不思議になる。
その音を奏でているのがいかような人かを
硬質な現実感を持って認識している、不可思議。

まず〈その人〉という私にとっての実体があって、次に〈CD〉の存在がやってくる。
そこまでは割と自然なことだと理解しているし、あり得ることだと思っている。
ただ、そのふたつの関係性(知人=奏者)そのものが硬質な現実感を帯びるのは
必ずしも起こりうることじゃないと思うのだ。
だって、昔にも知っている人が演奏しているCDを聴いたことはあるし、
その時も知人=奏者であることは「理解」していたけれど、
こんな風に「知って」はいなかったもの。
(それにこれはマスメディアを介する場合には絶対に起こらない。)

断っておくが、この「知って」は別に相手のことを
隅々まで知っているとかそういうんじゃない。
(ま、そんなことはまずあり得ないことだし、
 それに他者に対する認識は絶えず変容し続けるものだ。)
そうでなしに、「知っている」=「私の中に硬質な現実感がある」ということ。
硬質な現実感ってなんだよ、って思うかな。
ごもっともだが、やっぱりそうとしか言いようのないものだから
これは仕方ないのである。ちなみに軟質な現実感、というのもあるんだよ。

いやはや、春の夜は思索も不可思議さを持っております。